才能の芽を、自分の可能性を、自分で潰さないでほしい

子ども達はバスケが上手くなりたいと思う

 

 

だから、子ども達は強いクラブチームに入りたいと思う

 

 

強いクラブチームに入って上手い人たちと一緒にバスケすれば、もっと上手くなると考えているからだと思う

 

 

でも、本当にそれで上手くなれるのだろうか

 

 

確かに、上手い人たちと同じ環境を選ぶことはとても大事だと思う

 

 

その人たちに揉まれて自分も上手くなっていくということは往々にしてあると思う

 

 

でも、本当に揉まれる環境がそこにあるのか

 

 

ぼくは中学生のある現状を見てきた

 

 

とある強い中学生のクラブチームがあった

 

 

そこには県選抜の子だったり、県で上位に入るチームのメンバーだったり、上手い子たちがたくさんいた

 

 

そのチームにいればクラブチームの全国大会にだってまず間違いなく出られる

 

 

そんな強いチームに、”そこそこ上手い子たち”や、”もっと上手くなりたいと思う子たち”が入る

 

 

それは当たり前のことだと思う

 

 

ぼくが中学生だったら同じように思う

 

 

上手い子たちと一緒にバスケできるし、全国大会にだって出られる

 

 

それに、“あのクラブチームに所属している”という箔が付く。これは子どもにとって大きい。

 

 

やっぱり誰だって「すごい」って思われたい。当たり前だ。子どもだったらなおさらだ。

 

 

 

でも、ぼくが見る限り、そのチームに入った“そこそこ上手い子”や“もっと上手くなりたい子”は決して上手くなっていると思えなかった

 

 

なぜかと言うと、教えてもらえないからだ

 

 

試合に出られないからだ

 

 

 

一方で、県選抜や県上位に所属する上手い子たちは、指導してもらえるし、試合に出られるしで、さらに上手くなっていく

 

 

これは、やはりチームの戦力になっているのかどうかになってしまうからだと思う

 

 

指導者も人間なので、上手い子たちをもっと上手くして全国大会でも結果を出したいし、チームから上手い子を輩出することでチームの名前が売れる

 

 

そのへん指導者だって弱い生き物だ

 

 

また、人数が多すぎて見られないというのもあると思う

(※そんなことは指導者側の都合でしかないが)

 

 

その結果、上手い子たちはどんどん伸びる

 

 

“そこそこ上手い子”や“もっと上手くなりたい子”たちは伸びない。という厳しい現実になってしまう

 

 

 

だからぼくは、“そこそこ上手い子”や“もっと上手くなりたい子”たちは、たとえ弱くてもしっかり指導してもらえる環境、たくさん試合に出られる環境があるチームに所属してほしいと強く思っている

 

 

 

特にここで大事なのは、「たくさん試合に出られる」ということ

 

 

「しっかり指導してもらえる」というのもすっごく大事なことだけど。

 

 

 

正直、いくら練習だけしても意味がないと思う

(※言い方に少し語弊があるが)

 

 

 

結局は試合が大事だ

 

 

試合のなかで上手くなるし、試合のなかでバスケの考え方が身につく

 

 

試合のなかでしか身につかない感覚というものが実際にある

 

 

いくらいい練習をしていようが、試合のなかで発揮できないと意味がない

 

 

試合経験というものは上手くなる要素としてとてもトテモTOTEMO大事だ

 

 

大事でしかない

 

 

「試合は大事じゃない」という奴がいたら、その理由をぜひ5文字以内で論理的に説明してほしい。ぼくの圧勝であることは間違いない。

 

 

 

 

 

だから、子ども達には何が一番大切なことなのか

 

 

一度考えてからクラブチーム選びをしてほしい

 

 

「強いチームの一員でいたい」

「上手くなることよりも全国大会に行きたい」

 

 

ということが自分のなかで重要なことであれば、強いクラブチームに所属したほうがいい。所属すべきだと思う。

 

 

でももし、「上手くなりたい」ということが自分のなかで重要なことであれば、弱くても“しっかり指導してもらえる環境”“試合に出られる環境”があるクラブチームに所属したほうがいい。所属すべきだと思う。

 

 

確かに負けるのは嫌だし、強いチームの一員でいたし、周りからの目も気になることだってあると思う

 

 

でも、自分にとって本当に大事なことって何なのかよく考えてほしい

 

 

その大事なことが大事にされる環境を選ぶべきだ

 

 

才能の芽を、自分の可能性を、自分で潰さないでほしい。

くっそラク かつ くっそイージーな成長方法

お教えします

 

 

 

これほど自分の思考回路をとめつつ

てっとり早く成長する方法が他にあるのでしょうか

 

 

 

くっそラクで、くっそイージーな成長方法

 

 

 

それは、「真似をする」です

 

 

 

なんでこういう行動をするんだろう とか

これはなんの意味があるのか とか

 

 

あなたは何も考えなくて大丈夫☆

 

 

 

とりあえず“真似”しとけばいいんですよ

 

 

 

 

だれの真似か?

 

 

 

 

それは「バスケがうまい人 or 強いチーム」のです

 

 

 

なぜかうまい人や強いチームって

 

 

 

挨拶がカッコイイ

 

クツや荷物がキッッッチリ揃っている

 

ウォーミングアップとかめちゃめちゃ声を出す

 

集合のときに光の速さでダッシュする

 

他のチームのプレーをしっかり見ている

 

なんか学校でトイレ掃除とかしてるらしい

 

その他もろもろ・・

 

 

 

 

一方で、

 

 

「下手くそな人や弱いチーム」に限って

 

 

こういうことができなかったりする

 

 

 

 

これは本当に不思議なことだと思う

 

 

 

「うまくなりたい」 「強くなりたい」

 

 

 

と思うなら

 

 

まず、態度や意識から“真似”をする

 

 

 

コレが大事

 

 

 

 

我が国、日本には「学ぶ」という言葉が存在します

 

 

「学ぶ」は「成長する」ために不可欠であります

 

 

その「学ぶ」の言葉の由来は

 

 

なんと、「真似る」らしいのです

 

 

 

つまり、こういうことです

 

 

「真似る→まねる→まねぶ→まなぶ→学ぶ」

 

 

 

おおぉぉぉぉぉぉーーーーーー!!!!!!

 

 

変わった!!!

見事に変わった!!!

誰にも気づかれないくらいに「スッ」と変わった!!

 

 

 

 

“まねぶ”ってなんやねん☆

 

 

というツッコミをした人はセンスがクソ悪い

 

 

 

 

とにかく“真似”をしよう!

 

 

真似をする意味はあとからついてきます

 

 

 

“真似”の“真似”による“真似”のための教育改革

“叱る”指導と“褒める”指導

ぼくは個人的に、“叱る”指導者がキライだ

 

 

だが、結論から言わせてもらうと

 

 

“叱る”指導は正解だ。

 

 

とぼくは思う

 

 

正確に言うと、

 

 

“叱ることができる”指導者にならないといけない

 

 

それは子どもたちのためだ

 

 

 

というのも、

ぼくはこの目で見てきてしまった

 

 

この目で見てしまったからには、

自分の考え方を否定せざるをえなかった

 

 

何を見てきたかと言うと・・

 

 

 

叱られたことでその壁を越える子どもたちをだ

 

 

これには鳥よりもよっぽど鳥肌になったし

奇跡とも思えるような瞬間だったと記憶している

 

 

 

 

ぼくは、“褒める”指導を徹底してきた

 

 

褒められるほうが叱られるより断然伸びると

思うし、ぼく自身がそうだったからだ

 

 

そして、褒める指導のほうが叱る指導よりも

子どもの自主性が育つと思う

 

 

この要因はトクに大事だ

 

 

実際に、褒める指導で子どもはめきめきと成長したし

バスケのことをどんどんDONDON好きになってくれた

 

 

たくさんの子が、褒める指導でバスケを始めてくれた

 

 

褒める指導は間違いない

 

 

この指導法は、子どもたちにとって

疑う余地もない絶対的に良い指導方法だ

 

 

でも、褒める指導“だけ”では限界があった

 

 

 

 

こんな中学1年生の話がある

 

 

その子はバスケがとてもうまい

 

 

バスケに取り組む姿勢も素晴らしい

 

 

非の打ち所がないような子だった

 

 

その子は全国大会という場で

中学3年生相手に果敢にチャレンジしていた

 

 

体格差も経験の差もあり勝てない

 

 

何度チャレンジしたって勝てない

 

 

指導者であるぼくとしてもこれには

「よくやってる」としか言いようがなかった

 

 

そこでぼくに指導を教えてくれていた

指導者の先輩が・・・

 

 

 

「抜いてこいよ!!!!!

自分で勝手にあきらめんなよ!!!!!

エースなんやろがあ!!!!!」

 

 

 

っていう感じで、本気の本気の本気の

マジのガチの冗談抜きに叱っていた。

 

 

 

そして、その次のプレイ

 

 

 

その1年生の子は本当に3年生を

ぶち抜いて点をもぎとってきた

 

 

その後も何度もシュートを決めた

 

 

ぼくは、「よくやってる」としか言えなかったし

そうとしか思えなかった

 

 

その状況でその子にさらに厳しくする

ことなんて絶対にできなかった

 

 

 

でも、それではその子は成長できなかった

 

 

 

一方で、叱ったことでその子は成長した

 

 

 

あとから学んだことだけど・・・

 

 

褒めてすでにうまくなった子

すでに自主性が育っている子

褒めなくても勝手にうまくなる子は

 

 

 

叱っても大丈夫

いや、叱ったほうがいい

もうむちゃくちゃな理由で叱ったほうがいい

 

 

らしい。

 

 

 

“叱る”ことも大事

 

 

 

叱らないと伸びない部分って絶対にある

 

 

うまくなってほしいから叱る

その子のためを思って叱る

本気だから叱ることができる

 

 

 

これは決して指導者のエゴではない

 

 

 

叱るほうが辛い

 

 

 

褒める指導も大事

 

 

 

その先にある叱る指導は

もっと大事かもしれない

 

寺園くんとKOSUKEさんを見て印象に残ったことてきなやつてきな

今回はバスケの技術面について書く

 

 

寺園くんとKOSUKEさんのプレーを見たとき

 

 

・ステップワーク

・フリーハンドの使い方

 

 

この2点がぼくのなかで特に印象に残った

 

 

もちろん、ドリブルの強さとか速さとかそんなものは言うまでもないほどにすごかった

 

 

でも、印象に残ったといえば、

 

 

・ステップワーク

・フリーハンドの使い方

 

 

この2点だ

 

 

これは、ストリートバスケだからこそ

際立つテクニックだと思う

 

 

だからこそ今回ぼくのなかで印象的だった

 

 

まず、「ステップワーク」

 

 

彼らはドリブルで相手を揺さぶるときの

“ステップ” が半端ない

 

 

細かいし、振り幅が大きいし、縦にも横にも動かすし、

 

 

あれはとにかくシンプルにしんどいやつやなと思った

 

 

ドリブルって「手」でするものやから

ドリブルの技術自体に意識がいきがちやけど

 

 

もっともっと「足」のほうも意識を向けるべきやと思う

 

 

これは子どもたちに指導してたときも言うてたこと。

 

 

でも、生の寺園くんやKOSUKEさんは

レベルが違いすぎた。

 

 

ドリブルしながらそんなに「足」って動く?

 

 

という領域に踏み込んでいる

 

 

それほど “ステップ” がヤバかった

 

 

ドリブルする「手」も大事やけど

「足」のほうにももっと意識を向けるべき

 

 

と改めて思ったし、さらにその基準があがった

 

 

 

次に、「フリーハンドの使い方」

 

 

“フリーハンド”はドリブルしてない方の「手」のこと

 

 

この“フリーハンド”でボールを守ったりディフェンスとの距離を取ったりする

 

 

ストリートは普通のバスケと違ってディフェンスの当たりがきつくても許される

 

 

普通のバスケだったらファールになるようなプレーでもファールにならないことが多い

 

 

そこで、“フリーハンド”の使い方が重要になってくる

 

 

この使い方がうまい人=オフェンスがうまい

 

 

という方程式すら存在するのではないかと思うほどだ

 

 

ファールと思うような荒いディフェンスで詰められても

 

 

彼らは余裕を持ってドリブルを突いていた

 

 

そして詰めてくる分、余裕で抜いていた

 

 

もうディフェンスからしたら訳がわからないと思う

 

 

詰めるデメリットは抜かれやすいこと

 

 

詰めるメリットはオフェンスに自分のプレーをさせないこと

 

 

でも、ぼくが見た光景では

 

 

寺園くんもKOSUKEさんもいくら詰められようと、自分のプレーをしているし、詰められているから簡単に抜けるし、なんなら簡単に抜けるから遊んでるし。

 

 

というものだった

 

 

 

「ステップワーク」と「フリーハンド」

 

 

子どもたちにも意識させたい技術だ

 

生で寺園くんとKOSUKEさんのドリブルを見た

そうです、とうとうぼくは見てしまったのです

 

 

東京に引っ越したので、SOMECITYに彼らのプレーを見に行こうとは思っていたのだけれども、そんな日が来る前にぼくは見てしまったのです。

 

 

その日は新宿のマクドナルドでニヤニヤえっさほいさと読書をしていた。ふとスマホを手に取り、慣れた手つきでTwitterを開きタイムラインをスクロールスクロールスクロ〜〜ル。

 

 

すると・・・

 

 

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このツイートが目に飛び込んだ

 

 

いや、もしかしたらぼくの目がツイートに飛び込んでいたのかもしれない

 

 

ふむふむ。「高田馬場

 

 

 

東京に疎いぼくでも田舎の阿保でも“高田馬場”は分かる

 

 

高田馬場が新宿に近いということだけは犬でも分かる

 

 

 

 

「これは見に行くしかない!!!!!」

思った頃には“清水川橋公園”に着いていました

 

 

 

それは嘘。

 

 

 

ちゃんと

 

 

見に行こう→清水川橋公園の場所調べる→何線の電車に乗るか調べる→電車に乗る→高田馬場で降りる→コンビニに行く→清水側橋公園に着く!

 

 

という行程を経て着きました

 

 

 

公園に近づき

 

 

「ボールの音が聞こえるぞ♪」と胸が高鳴る

 

 

 

そしていざ公園に足を踏み入れたときには勃起してた気がする

 

 

 

 

「寺園くんがいるっっっ!!!!!!!」

 

 

「生の寺園くんだっっ!!!!!!!ヤバイッッ!!!」

 

 

「え、ちょっとまって!!!!あの人、KOSUKEさんちゃう??????」

 

 

「やっぱりKOSUKEさんて呼ばれてる!!!!!ヤバイ!!!!!」

 

 

「この2人に5万くらい払いたぁぁぁあい!!!!!!」

 

 

 

 

と周りの目を気にせず叫んでいる自分がいました。

 

 

 

 

それは嘘。

 

 

 

このように、心のなかでは興奮して大パニックだったのだけれども

 

 

 

表面上では・・・

 

 

 

「あー、ストリートバスケやってるんだ。ちょっと見ていこ」

 

 

 

 

くらいのクールなテンションを醸し出し素知らぬ顔でヌウヌウと公園に入っていきました

 

 

 

普通ならお金を払ってでも見る価値のあるプレーを、これでもかというほどええとこに腰をよっこらせと下ろし、文字どおり”目の前”でプレーを見た。

 

 

“目の前”という言葉は、この日のこの瞬間のために作られたのではないかとさえ思いました。

 

 

 f:id:naniironan:20180325100542j:image

 

 

“目の前”だ!!!!!!!

 

 

 

もうここからは終始、目を見開きニヤニヤしつつヨダレをたらし、そして「うへうへ」という言葉を発しながら、下半身を勃起させ、これでもかというほど拍手をしている自分がいました。

 

 

 

あなたは、こんな成人男性を見たことがあるだろうか?

 

 

 

ない。少なくともぼくはない。

 

 

 

でも、コレはアレではないのか?

 

 

 

という予想?

いや、確信と言ってもいい

 

 

 

 

そう、コレは性犯罪者のソレでアレだ

 

 

 

 

彼は間違いなく性犯罪者だ

 

 

 

 

どこからどう見ても性犯罪者にしか見えない

 

 

 

 

しかし、この人が性犯罪者であるかどうかはこの記事の本題とは一切関係ないのでこの話はここでさっぱりと忘れていただきたい

 

 

 

 

とにもかくにも、寺園くんとKOSUKEさんのドリブルは“ヤバかった”

 

 

何がどう“ヤバかった”かというと、ドリブルがヤバくてヤバイがヤバかったのだ

 

 

 

「ヤバイ」という単語はこの日のこの瞬間を表すために作られたのではないか?

 

 

と、今まで幾度となく使ってきた「ヤバイ」という言葉の語源・由来について、ここにきてようやく興味を持ち始めるくらいにはヤバかった

 

 

 

ぼくの表現力およびボキャブラリー能力も相当ヤバイのだが、彼らのドリブルはそれ以上にヤバさの飛び抜け具合がヤバイほどにヤバくてかつヤバさもヤバイほどに兼ね備えていてヤバイほどにヤバかったのだ

 

 

 

 

表現力があまりにもヤバすぎるので少しだけ具体的に説明させてもらうと・・

 

 

 

 

 

ダッダダダダッダダダダダダ.シュッッシュシュシュシュ.ユラ〜ユラ〜ユラ〜ギュン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ダダダダダダダダダダ.ヒュッ!シュパッ!

 

 

 

っていう感じ!!!!!!!!!!

 

 

 

 

ぜひ、Youtubeで“SOMECITY”と検索して、この2人のヤバイドリブル、そしてヤバイプレーを見てほしい!!!!!!!!!!

 

 

 

 

これを見ると・・・

 

 

 

 

あなたも性犯罪者の領域に足を踏み入れるに違いない

 

 

 

 

 

 

 

そしてそしてそして!!!!!

ぼくは、この日に「学んだこと」が1つある

 

 

 

 

「ノリは大事☆」だ

 

 

 

 

 

 

ご精読ありがとうございました。

ぼくの人生を動かした指導者との出会い

ぼくは高校生のとき、指導者がいなかった

 

 

バスケを教えてくれる人がいなかった

 

 

それは、保護者によって顧問の先生が

辞めさせられたからだ

 

 

でも実際には、先生が辞めさせられるまでの間

 

 

ぼくはその先生に指導してもらっている

 

 

3ヶ月間

 

 

たった3ヶ月間だ

 

 

でも、この出会いはぼくの人生にとって

 

 

なくてはならない貴重な出会いだった

 

 

この出会いがなければ

 

 

ぼくの人生でこれほどバスケに

打ち込むことはなかったと思う

 

 

大学で子どもたちにバスケを

指導していなかったと思う

 

 

そもそも大学の学部だってスポーツ系の

学部なんて目指していなかったと思う

 

 

こうして今、バスケを題材にして

ブログを書いていなかったと思う

 

 

あなたにこのブログを通して会えてなかった

 

 

 

たった3ヶ月間の出会いが

それほど人生に影響を与えている

 

 

ぼくはその先生と出会ってバスケに対する

考え方が6万8000℃ほど変わった

 

 

物事に本気で打ち込むことの「やりがい」に加え、

 

 

しんどさ、辛さ、苦しさ、厳しさ、痛さ、ゲロさ

吐き気やうんこのびちびちさ、げりぴーさ・・・

 

 

その他もろもろ

 

 

この世界中にある、ありとあらゆる

ネガティブな何かを教えてもらった

 

 

 

そして何よりも

 

 

コレだ。

 

 

 

“本気のしんどさ”からくる

 

 

“本気の楽しさ”を教えてもらった

 

 

 

他にも

 

 

期待されたい、負けたくない、逃げたくない、

認めてもらいたい、先生の想像を超えたい

 

 

もっとうまくなりたい、もっと知りたい

 

 

もっともっともっとほっともっと・・・・

 

 

上にはこんな世界があるんだ

まだ、自分ってこんなレベルなんだ

 

 

わずか3ヶ月の間で感じることが

本当にたくさんあった気がする

 

 

 

 

やっぱり、人間にとって

そして何より子どもにとって

 

 

“指導者との出会い”ってめちゃくちゃ大事だ

 

 

その出会いで、人生が変わる

 

 

しかもぼくの場合、たった3ヶ月の出会いだ

 

 

たった3ヶ月の出会いでその後の人生が動いている

 

 

そのことを指導者の人はもっと自覚してほしい

 

 

それぐらい“やりがいがある”ってことを!

“子どものため”という大人のエゴ

ぼくは高校生のとき、指導者がいなかった

 

 

誰もバスケを教えてくれる人がいなかった

 

 

ぼくは高校生のときが1番伸びる時期だと思う

 

 

その時期に指導者がいなかったことは今でも辛い

 

 

そりゃあ「この人に教えてもらいたい」っていう理由で

 

 

学校選びをすれば、いい指導者に出会えるかもしれない

 

 

でも「そこまでしないとだめ?」って思う

 

 

これは甘えなのか? これは甘えなのでしょうか?

 

 

もしかしたら甘えなのかもしれません

 

 

ここでは“甘えではない”という前提で進めます

 

 

そうすると、子どもは指導者を選べない

 

 

ましてや、指導者がいないなんてふざけんなと思う

 

 

 

 

いや・・・、実際にはいたんですよね。

 

 

 

 

ただ、ぼくが高校に入学して3ヶ月で

 

 

バスケ部の顧問を辞めさせられてしまった

 

 

 

辞めさせたのは、バスケ部員の保護者。

 

 

 

誰にも聞かれてないけど勝手にその話を始めたいと思います。

 

 

 

その指導者はたしかに厳しかった

 

 

練習なんてもう鬼畜だった

 

 

鬼畜以外の何物でもなかった

 

 

「練習」のフリガナを書きなさいと言われたら

 

 

迷いなく「キチク」と書いていたと思う

 

 

いったいぜんたい何がそんなに鬼畜かと問われれば

 

 

シンプルに「しんどい」

 

 

コレだ。

 

 

それ以上でもそれ以下でもない

 

 

 

中学校を卒業したばかりで頭も体もちゃらんぽらんになっていたぼくには、その練習はきつかった

 

 

なんなら2年生3年生の先輩たちですら

 

 

今にもウンコ漏らしそうな顔をしていた気がする

 

 

いや、今思うと、あれ漏れてたんじゃね?と思う

 

 

 

まあ、そんな顧問の先生もぼくの入学と同じく

 

 

その春から着任してきた人だった

 

 

ぼくからしたら、高校に入学して初めからその環境

 

 

その練習だったのでそれが当たり前だったが、

 

 

2年生3年生の先輩たちからしたら

 

 

それまでの環境、それまでのやり方とまったく違う

 

 

だから抵抗もあっただろうし、おもしろくなかったと思う

 

 

 

そして、この2年生3年生の保護者たち(なかには1年生の保護者も少しはいたかも)が

 

 

その指導者をバスケ部から外してしまったのだ

 

 

 

理由は、“子どもたちのため”。

 

 

え?

 

 

“子どもたちのため”?

 

 

ん?

 

 

 

 

その保護者たちの子どもはほぼバスケ部を辞めた

 

 

たしかにその保護者たちは自分の子どもを守ったのかもしれない

 

 

親として素晴らしい行動だと思う

 

 

変に、「あんたが悪いんでしょ」とか

 

 

「我慢しなさい」とか言う親よりは

 

 

20000倍もマシだと思う

 

 

ただ、“残されたぼくたちのこと”を考えたことがありありましたかって思う。

 

 

 

それからぼくはほんまに辛かった

 

 

正直、今でもそういう環境にした大人を憎んでいる

 

 

高校バスケで指導者がいない

 

 

バスケを教えてくれる人がいない

 

 

そういう環境になった理由は“子どもたちのため”。

 

 

 

ふざけんなよ

 

 

 

こういう“子どもたちのため”とかいう

 

 

“大人のエゴ”って少なくないと思う

 

 

被害を受けるのはいつも子ども

 

 

先生も指導者だけど、親も指導者。